Hawaiiana
ハワイの文化&歴史
CAPTAIN JAMES COOK キャプテン・ジェームス・クック
クックの太平洋探検
1776年7月、キャプテン・ジェームス・クックは太平洋から大西洋に抜ける北航路の発見とオマという男をタヒチに帰還させるという任務のもと、太平洋への3回目の航海を行います。その時代、ヨーロッパの人々はアジア諸国への貿易を模索していました。しかし、南米のケープホーン周りでは距離は長く、アフリカのケープ・オブ・グッド・ホープへの航海では金額が高い上時間がかかり、危険でもありました。
クックは過去に南半球の太平洋には2度航海した経験がありました。しかし、北半球側には行ったことはなく、そのためハワイ諸島の海域には足を踏み入れたことはありませんでした。タヒチにて2隻の船、リゾリューション号とディスカバリー号の手入れをし、地図に載っていない未知のテリトリーに向け北進しました。
ワイメア湾(カウアイ島) に到着
ハワイではその頃、Makahiki祭の時期でした。人々はロノ神に敬意を表して娯楽と宗教的な祝いの催しに打ち込んでいました。この時期ロノ神は海を渡ってハワイに帰ってくるという伝説がありました。
1778年1月
ハワイの人々にとっては、クックの乗った奇妙な船がカウアイ島のワイメア湾の港に到着しロノ神がやってきたように見えたのです。 船の帆はマカヒキの象徴でもあるロノマクアによく似ており、来た時期も伝説通りでした。そのためクックはロノ神として迎えられ、彼と一緒に来た乗組員も同様に盛大な歓迎を受けたのです。また、ハワイの人々はこれまでに見たこともない鉄の道具を喜んで受け取りました。労働を容易にしてくれるこれらの道具の代わりに、ハワイの人々はたくさんの貴重な工芸品をクック達に渡しました。
ケアラケクアへの帰還
クックは数日間カウアイ島に滞在した後、ニイハウ島に寄り、北への航海を続けました。アメリカ本土の北西海岸に到着し、本土と海岸沿いの島々を地図に写し、ベーリング海に入りました。秋になり気候が寒くなると、ハワイに戻るため、今度は南に向かいました。
今回はマウイ島を訪れた後、ハワイ島のケアラケクア湾にいかりを下ろしました。そこでカラニオプウ王によって暖かく歓迎され、王との友人関係を深めます。しかしその関係は徐々に変化していきます。ハワイの民衆はしだいに自分達の食べ物を分け与えることや、新鮮な水を求めて山に登って大樽をころがすことににあきあきし始めました。そしてその不満から貴重な鉄の道具を盗んでしまいます。英国乗組員たちも、一年以上も母国を離れ、そろそろ英国に戻りたいと思っていました。1779年2月、クック達はその地を離れました。
クックの死
ところが、ウポル岬の沿岸で激しい嵐が発生し船のマストの1つが折れてしまいました。クックはそのマストに代わる木がケアラケクア付近で手に入ることを知っていました。そして助けを求めかろうじて島に戻ります。その時も親切にもてなされたものの、以前のような大歓迎ではありませんでした。数々のいざこざが続き、位の高いチーフが殺害されてしまう事件が起きます。 これを聞いたハワイの人々は盾を持ち、石や短剣で武装し戦いの準備をしました。
この事態についてクックはカラニオプウ王と話し合いを持とうと岸に出向くと、武装したハワイの人々は今にも攻撃しそうな様子を見せていました。それに応じて相手のマスケット銃兵が発砲します。ハワイ側はクックと乗組員達を威嚇し続け、その結果クックは最高位にあったハワイ側の1人を射殺してしまいました。クックも刺されはしたものの湾に停泊させていた船にたどり着き、発砲を止めるよう指示しました。それでもハワイの人達は攻撃を続け、クックは岸の岩上で息が絶えてしまいます。
この争いで4名の兵と17名のハワイの人々が命を落としました。 チーフの伝統的な葬り方は、遺骸を骨と肉体とに分け、その骨を最高級のkapa に包み、魂が侵されない場所に隠すという方法でした。ハワイの人々はクックを神聖な人と見なし、彼をチーフを同じ方法で埋葬しました。
ハワイ文化への影響
アラスカの毛皮、オリエンタルのシルクやスパイス、ヨーロッパの人々が切望する品々などの貿易商にとってハワイは理想的な貿易の中心地となりました。外の世界に開かれたハワイは、古代文化に終わりを告げたのです。何百年もの間孤立していた社会にいたため疫病への免疫力がなかった人々は、恐ろしい流行病で種族の存続さえも危ぶまれることになったのです。